津山事件とは、1938年5月21日に岡山県津山市加茂町行重(旧・苫田郡西加茂村大字行重)の貝尾集落で発生した大規模な殺人事件で、一般には「津山事件」や犯人の名前を取って「都井 睦雄(とい むつお)事件」と呼ばれています。

この事件はたった2時間足らずの間に行われにもかかわらず、28人が即死し5人が重傷を負いました。そのうち12時間後に2人が死亡したので、最終的に計30名が死亡し3名が負傷を負いました。犯人は犯行後に自殺したので被疑者死亡により起訴はされませんでした。
明治維新後、日本は西洋式の近代法制を整備してきましたが、戦争行為を除く犯罪としては、京都アニメーション放火殺人事件が発生した2019年まで、この事件が最も多くの犠牲者を出した事件です。
※京都アニメーションの死亡者は36人。
また、この事件は1977年に放映された映画「八つ墓村」や、1981年に放映された映画「丑三つの村」のモチーフとなったことでも知られています。
事件の概要

1938年5月20日の午後5時ごろ、当時21歳の都井は電柱に登り、送電線を切断して貝尾集落を完全に停電させました。
翌5月21日の午前1時40分ごろ、都井は行動開始。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを巻き、小型の懐中電灯を両側に1本ずつ装着しました。
首からはナショナルランプを提げ、腰には日本刀一本と匕首(あいくち)二本を携帯し、手には9連発に改造したブローニング・オート5を持ち襲撃に向かいます。
都井が利用した装備のイメージ

最初の被害者は祖母

都井は最初に、自宅で寝ていた祖母(75歳)の首を斧で切断し、首と胴体が数十センチの間隔で分かれる形で即死させました。
次の襲撃は都井宅の北西にあるA家(A:20歳)に対して行われました。Aは兵役中で不在でしたが、Aの母親(50歳)とAの弟2人(14歳、11歳)を日本刀で殺害しました。
次に、2軒目の襲撃を行うためにB家(B:50歳)に侵入し、B本人、Bの妻(43歳)、長女(23歳)、Bの妻の妹(24歳)を射殺しました。
3軒目はC家(C:22歳)で、C本人とCの妻(20歳、妊娠6ヶ月)、さらに農業手伝いに来ていたCの甥(18歳)を射殺しました。Cの母親(70歳)は足元にひざまづいて命乞いをしましたが、都井は「あなた方に恨みは持っていなかったが、(都井が恨みを抱いていたB家から)嫁をもらったために殺さなければならなくなった」と言って猟銃を発砲しました。しかし、幸い肋骨に被弾し重傷で済んだのでCの母親は生存者になります。
都井はこのような殺戮を繰り返し行い、約2時間の間で30人の死者と、重傷および軽傷を負った3人の合計33名もの被害者を出しました。

死者の中には5人の未成年者もおり、最年少は5歳の子でした。この事件により、11軒の家が被害に遭い、その中の3軒では一家全員が殺害され、4軒の家には生存者が1名でした。
数名の人は銃声や怒声を聞いたあと、すぐに身を隠すなどして難を逃れることができ、2人の住民は襲撃の夜に村を離れていたため、事件から逃れることができました。
また、ある家では主人が必死に「助けてくれ、動かないから」と懇願したところ、都井は「命を大切に思うのか。わかった、助けてやるから」と言い、その場を去ったと伝えられています。
遺書を書くために隣の集落に訪れる
約2時間に及ぶ犯行を終えたあと都井は遺書を書くために鉛筆と紙を借りに隣の集落の家を訪ねました。
その家の住人は都井の奇怪な風貌に驚いて動けない状態でしたが、その家にいた子供がたまたま都井と顔見知りだったことから、鉛筆と紙を譲ってくれたそうで、その子供に対し「がんばって勉強して立派になってくれよ」と声をかけその場を去ったそうです。
その後、3.5km離れた峠の山頂で、遺書を書いたあと猟銃を使用し自殺しました。都井の遺体は翌朝、山狩りに来た人々によって発見され、猟銃で自身の心臓を撃ち抜いたため、即死したと考えられています。

この画像は都井が自殺したあと撮影されたものです。

違う角度から撮影されたものです。右下に見えるのが都井が身につけていた物です。
都井が残した遺書の内容

都井が残した遺書の内容は以下のとおりです。
※修正した内容は下にあります。
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
犯行直後の興奮状態での遺書なので誤字があることや、昔の書き方なので読みにくいと思いますので、以下にできる限り現代文にし、読みやすくした文章を掲載しています。
死に臨むに際し、ここに一筆を残し申し上げます。私は実行に踏み切りましたが、やるべきでないことを考えぬいて行動しました。状況に任せて行動し、祖母には申し訳ありません。本当に申し訳ありません。幼少期から面倒を見てくれた祖母、祖母を殺すべきではありませんでした。しかし、後に残る者のことを考え、ついその行動に走りました。瞬間の衝動で、ああ、祖母に対しては許してもらえないことをしたのです。本当に申し訳ありません。涙が流れるばかりで、ただ申し訳ない涙ばかりです。姉さんにも申し訳ありません。非常に申し訳ありません。お許しください。つまらない弟でした。このようなことをしたため、どんなに重い罰を受けてもかまわないです。野に朽ちるのが望みです。病気に四年間苦しめられ、冷徹な社会に圧迫され、本当に泣きました。少ない親族の中で、愛というものが私には少なく、泣きました。社会も私たち結核患者に同情の気持ちをもってくれるべきでしょう。実際に私は弱かったです。今度は強くて偉大な人間に生まれ変わりたいと思います。実際、私も幸福でない人生でした。次は幸せな人生を送りたいと考えます。
思い通りに事が進まなかった。今日、実行を思いついたのは、以前私と関わりのあった寺元ゆり子が貝尾に来たから、そして西山良子も来たからでした。しかし、寺元ゆり子は逃がしました。また、寺元倉一という男も同様に逃がしたのは情けないことです。ああ、こうした人々はこの世から去るべきでしょう。彼らは金を持っているからと言って、未亡人たちを狙っていて、貝尾でも彼とは関わりたくない人々がほとんどです。岸本順一も密猟ばかりしており、土地でも評判が悪いです。こうした人々はこの世から去るべきでしょう。
殺害に及んだ理由は村に恨みがあった説が濃厚
この事件は、ひとつの集落に対し殺害に及んでいるので無差別殺人と思われがちですが、いくつか殺人に及んだであろう理由があります。
まず、手紙に書いてあるように、都井が結核に罹患したことが第一に挙げられます。戦時中に兵役試験に落ちることは恥と考えられており、当時の結核は不治の病であり人に伝染するので、とても忌み嫌われていました。
都井は成績優秀だったらしく村でも神童と呼ばれていたそうなので、この挫折は大きかったと言われています。
また、夜這いの風習が根強く残っていた村だったので、都井も村の女性の多くと関係を持っていましたが、罹患後は手のひらを返したように付き合いを絶たれたそうで、関係を迫り、相手が拒否すれば「殺してやる!」と脅し無理やり関係を持っていたそうです。
加えて都井が想いを寄せ、結婚を望んでいた寺元ゆり子という女性が都井を捨てて他の村へ嫁いでしまい、事件の日に里帰りをしていたのでこれが直接の引きがねになったとも言われています。
事実「お前だけは残しちゃいけんのや!」と叫びながら、寺元ゆり子さんめがけて猟銃を発砲したと言われています。
ちなみに寺元ゆり子さんは手紙にも書いてあるように、難を逃れ少なくとも最近までは生存していました。しかし、事件に関しては頑なに口を閉ざしているそうです。
一部の事実は闇のままになった事件
事件発生後、犯人の都井は自殺し、多くの被害者が亡くなったため、生存者の証言が事件の真相を語る唯一の手段となりました。
しかし、生存者のほとんどが亡くなった被害者の家族と親戚関係にあるため、証言には都井に責任を押し付ける側面が強調されているという意見もあり、都井が亡くなったことで、都井と関係があったと噂される女性たちも否定すれば確認する方法がなく、事実の一部は不明なまま残りました。
事件現場となった貝尾集落の事件後と現在

事件が貝尾集落に与えた影響は大きく、一家全滅した家庭もあれば、大部分の家族を失った家庭もあり、集落の多くが農業で生計を立てていたため、生活が困難になったとされています。
また、都井の親族だった家が襲撃を受けなかったことで、事件の前から知っていたとされ、村八分のような扱いを受けたとも伝えられています。
現在は限界集落になっている
事件が発生した貝尾集落は、周囲の集落の中でも山際に位置しており、2015年に事件の現場となった都井の生家も取り壊され廃屋として残ることはありませんでした。
事件の発生当時には23世帯111人でしたが、2010年の国勢調査によれば13世帯37人となり、その後も限界集落化が進行し、事件当時から貝尾に居住している人はすでに一人もいない状況です。
また、事件が発生してから70年後の2008年に津山事件に関わる人物の証言記事によると、匿名の90代の高齢者がインタビューに応じ、当時の村に残っていた夜這いの風習について否定しているそうです。
しかし、この証言内容は、司法省刑事局が作成した「津山事件報告書」と食い違う部分があることが指摘されています。