第二次世界大戦中、ナチス・ドイツは強制収容所で恐ろしい医学的実験を行いました。収容された人々は無理やり実験に巻き込まれ、自発的な参加はなく実験の内容について説明も受けていませんでした。
この非人道的な実験は数名の医師の主導のもと行われ、麻酔が使われることはなく、被験者は死亡するか醜悪な外観が残るか、または一生涯にわたって障害が残るという結果になりました。
戦争が終わったあと、これら非人道的な実験の事実が明るみになり、世界中で非難が巻き起こりました。その結果、ナチス・ドイツの人体実験に関与した医師たちは裁判にかけられ、実験への関与が戦争犯罪として裁かれることとなりました。
この記事では、そんな非人道的な人体実験を主導した医師を6名ご紹介します。
骨・筋肉・神経の移植実験を主導:カール・ゲープハルト

カール・ゲープハルトとは、ラーフェンスブリュック強制収容所内で骨・筋肉・神経の再生に関する研究と、他人への骨の移植実験を主導した医師です。
これらの実験は、骨や筋肉、神経の再生についての研究、および他人への骨移植に焦点を当てていました。
実験は極めて残酷で、被験者は麻酔を使わず骨や筋肉、神経などを切断され、時には細菌を注入されることもありました。被験者の多くは若いポーランド人女性で、その数75人だったそうです。
実験の結果、多くの被験者が激しい痛みや切断による身体的な障害に苦しむこととなり、その影響は一生涯に渡ってつづきました。
また敗戦直前に責任追及されることを恐れ、実験の生き残りである女性被験者たちを処刑するよう命じ、証拠隠滅を図ったとされています。
最終的に、イギリス軍の捕虜となり戦後、アメリカ軍によって行われたニュルンベルク継続裁判の中で、医者裁判の被告人の一人として起訴。1947年8月20日に戦争犯罪と人道に対する罪に問われ、1948年6月2日にランツベルク刑務所で絞首刑に処されました。
高高度実験・冷凍実験・血液凝固実験を主導:ジクムント・ラッシャー

ジクムント・ラッシャーはナチス・ドイツの医師でありながらドイツ空軍の一員で、ダッハウ強制収容所では残酷な人体実験を繰り返し行っていました。
ラッシャーは空軍の一員であったことから、高高度実験に従事していました。当時のドイツはイギリス空軍の戦闘機に対抗するために、より高い高度を飛行できる戦闘機の開発に成功していました。
しかし、人間が耐えれるかどうかで行き詰まっており、ドイツ兵を使って実験することに躊躇していました。

そこで、ダッハウ強制収容所の人々を被験者にするのですが、ドイツ空軍の圧力室を使用した実験はほとんど致命的であり、被験者はフリーフォール中にパイロットがされるように酸素を奪われ次々死亡しました。この実験で200人が強制参加させられ120名が死亡。また、生き残った人は実験のために生体解剖されました。
冷凍実験で低体温症の予防

ラッシャーの実験で最もひどいものの一つは「冷凍実験」で、ドイツ空軍は低体温症の予防と治療方法を見つけるために低温実験を行いました。
この実験では、被験者を氷水に浸けてどのくらいの温度と時間で死ぬかを調べており、最大5時間浸ける試験が行われました。生き残ったとしても、何度も実験がつづけられ、結果的にほとんどの被験者が凍死しています。
また、ある被害者は沸騰するお湯に投げ込まれたり、女性収容者を使って強制的にセックスを行うよう指示し、どの行為が低体温に効果があるのか測定していたそうです。
血液凝固実験では出血をとめる実験を行う
ラッシャーは戦場で出血をとめるための凝固剤に興味を持ち「ポリガル」という物質を作りました。
効果を実証するため被験者にポリガルを服用させたあと、首や胸を銃で撃ち抜いたり、麻酔なしで手足の切断など、残酷な実験を行っておりラッシャーはその様子を冷静に測定していたそうです。
最終的にナチス・ドイツ敗戦間近の1945年4月26日、自身が多くの収容者を人体実験で虐殺していたダッハウ強制収容所で処刑されました。
感染症実験を主導:クラウス・シリング

クラウス・シリングは、ドイツの熱帯医学専門家で、ナチス党員ではありませんでしたが、1942年から1945年にかけてダッハウ収容所の収容者に対して非倫理的で非人道的な感染症実験を行いました。
彼はマラリアに関する研究や合成麻薬を使用した治療法を試みましたが、これは収容者1,000人以上に対する人体実験へと拡大され、300人から400人がその過酷な状況で亡くなり、生存者した人も永久的な損傷を負いました。
戦後、ヒトラー政権が崩壊したあと、シリングはマラリアに関する擬似医療的実験とその全ての犠牲者について責任を負うものとされ、ダッハウ収容所裁判で有罪となり1946年に絞首刑になります。

海水実験を主導:ハンス・エッピンガー

ハンス・エッピンガーはダッハウ強制収容所で収容者90人に対し、海水の飲用が可能なのかをテストするために残酷な実験を行いました。
この実験の目的は、海上で遭難したドイツ空軍のパイロットがどれだけ生き延びられるかを確かめるためだったそうです。

海水しか飲まされなかった被験者たちは脱水症状が進み、床がモップで拭かれたあとの水滴を手に入れるために床を舐める被験者もいました。
また、海水が唯一の液体源だったため、被験者たちは重度の身体的問題を抱え、脱水症状はもちろんですが、腎臓、腸、肝臓が機能しなくなり、極度の喉の乾きを覚え、痙攣や意識の混乱が起こりました。

幸いにもこの実験では死傷者は出ておらす、ナチス・ドイツが崩壊したあと、エッピンガーは人道に対する罪で医者裁判を受けることになったのですが、裁判が始まる約1か月前の1946年に服毒自殺しています。
不妊手術の実験を主導:カール・クラウベルク

カール・クラウベルクは、アウシュヴィッツ強制収容所で、主にユダヤ人被験者に対する医学実験を行ったドイツの婦人科医です。
クラウベルクは不妊手術を最短かつ簡単にできる方法を探しており、アウシュヴィッツ強制収容所で集団不妊手術を行う機会を得ます。
彼は麻酔を使うことなく被験者の子宮頸部に腐食剤など、さまざまな薬剤を注入し、その薬剤によって女性の卵管は塞がれ、感染症により死亡する女性もいました。
また、生き残った女性に対し強制的に性交させ不妊処置の有効性を確認していたそうです。

実験の結果、推定700人が不妊手術を受けたとされ、クラウベルクの答えは満足のいくものだったそうで「医師が10人いれば1日で数百人、場合によっては数千人のユダヤ人を不妊手術できるはずだ」と語ったそうです。
なお、クラウベルクの実験は尋常でない苦痛を伴うものだったので、女性たちの悲鳴がとどろき、驚いた看守が何をしているのか確かめに飛んできたそうです。
実験の目的は劣等人種の根絶
ナチス・ドイツでは劣等人種とされた人々を抹殺し、逆に自分たちが理想とする最高の民族を繁栄させることを考えていました。
そのため、ナチス・ドイツにとって劣等人種であるロシア人・ポーランド人・ユダヤ人を断種できる方法を模索しており、その一つとして不妊手術が強制的に行われていました。
クラウベルクは第二次世界大戦末期の1945年に赤軍に捕らえられ、懲役25年の判決を受けました。
しかし、捕虜交換協定に基づいて1955年に釈放され、ドイツに戻って医師としての診療をつづけていましたが、ホロコースト生存者たちの抗議により1955年に逮捕されました。
その後、裁判にかけられる予定でしたが、裁判が始まる前に死亡。
ムカデ人間のモデルになったヨーゼフ・メンゲレ

ヨーゼフ・メンゲレとは、映画「ムカデ人間」の主人公ヨーゼフ・ハイターのモデルとなった人物で、ナチス・ドイツ時代に実在した医師です。

ムカデ人間とは、2011年に公開されたオランダのホラー映画で「人同士の口と肛門を繋げ、ムカデ人間を作りたい」という下劣な内容の映画なのですが、実際にメンゲレが行っていた実験が題材になっています。
メレンゲは戦前に人類学と医学の博士号を取得。1937年に国家社会主義ドイツ労働者党に入隊し、翌年1938年に親衛隊に入隊しました。
その後、アウシュヴィッツ強制収容所に勤務することとなり、そこで非人道的な人体実験を繰り返し行います。

メンゲレはアウシュヴィッツ強制収容所の囚人を実験対象とし、特に双子に興味を持ち1944年から双子に対する実験を始めました。
最初は身体の比較から始まりましたが、次第に倫理を無視した実験を行い、残虐な手術へとエスカレートしていきます。
実験内容は「健康な手足の切断や病気にわざと感染させること」「片方の双子からもう一方に血液輸血を行うこと」などがあります。
最も残酷なものだとムカデ人間の題材になった、2つの臓器や体が同じ身体で正常に機能するかを確認するために「双子の背中や臓器を縫い合わせて人工的に結合双生児を作る」という惨忍な実験が行われました。

人工的に結合双生児を作るという実験で利用された双子の多くは、実験の最中に命を落としていますが、生還した少女達もおり、メンゲレは実験が成功したと喜びました。
しかし、双子が悪性の感染症に感染しているのが分かるとショックを受け、双子を親に返したそうです。
そして、両親はあまりに無残な姿になり苦しむ姿に耐えれずに泣きながら我が子を窒息死させたそうです。
※モルヒネを使った説あり。
これらの実験によりほとんどの双子が死亡し、生存した場合でも殺されたあと解剖され、なかには「実験目的なし」とされたことで無意味に殺された双子もいました。
最終的に被験者3,000組の双子のうち、生き残ったのはわずか180組と言われており、生き残った双子も後遺症や精神的な苦痛を抱えました。
そして、ドイツの敗戦が濃厚になる直前、双子たちを含む囚人を証拠隠滅のために殺そうとしましたが、毒ガスが不足したため解放されました。
戦後メンゲレはナチハンターによる追跡を逃れるために、アルゼンチンやブラジルに逃亡していましたが、1979年に脳卒中により死亡しました。
死亡後は偽名で埋葬されましたが、1985年に解剖され法医学検査によってヨーゼフ・メンゲレということが明確に特定されました。
双子に興味があったのはアーリア人のため
メンゲレが双子に興味を持っていた理由は、双子誕生のメカニズムが解明できれば、ナチスが優越人種と定めた「アーリア人」を格段にアップさせれると考えたそうです。
当時のナチスはドイツ国民を「アーリア人種」の一民族として賛美し、一方でユダヤ人や黒人、ロマ族やシンティ族を「非アーリア人」として貶め、この概念を推進していました。
メンゲレが逃亡した先で次々と双子が生まれた謎

メンゲレが逃亡したブラジルのある町では、世界平均の約10倍にも及ぶ20%の確率で双子が生まれるようになったそうで、ナチスの主張するアーリア人的特徴を備えた双子が次々に生まれる現象が起きました。
この村では1960年代に、メンゲレのような医者が住民に薬を提供したという証言が残ってお、実際にそのような出来事があったことから、一部の学者はメンゲレの実験が成功したと考えています。
しかし、この村は孤立しており、比較的に近親交配が多い状況で、双子が多く生まれる傾向もあったそうで、この現象は1990年代までつづいていました。
そのため、ブラジルの学者はこの村で双子が生まれる確率が高いことが、メンゲレが関与している可能性は薄いと主張しましたが、彼が住み始めて双子の出生率が跳ね上がったのは事実だそうです。