るろうに剣心や銀魂のモデル:実在した本物の人切り河上彦斎の生涯

るろうに剣心や銀魂のモデル:実在した本物の人切り河上彦斎の生涯
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幕末から明治時代初期にかけて尊皇攘夷派の熊本藩士だった河上彦斎(かわかみ げんさい)は幕末の四大人斬りの一人とされています。


明治維新後も攘夷思想を強く持ちつづけたため、藩と新政府に危険視され、38歳で斬首されました。


るろうに剣心の主人公、緋村剣心や銀魂の河上万斉のモチーフとなった人物です。

河上彦斎(かわかみ げんさい)の生涯

河上彦斎とは、幕末四大人斬りの一人といわれ、通称「人斬り彦斎」と呼ばれていました。


伝えられている容姿は人斬りとは程遠いイメージで、背丈は約150cmと小柄な色白で、一見女性に見間違うほどだったと言われています。このあたり、るろうに剣心の緋村剣心と共通していますね。


彦斎は肥後細川藩熊本城下の新馬借町(現在の熊本市中央区新町3丁目)で生まれ、16歳の時に藩主邸の花畑屋敷で茶坊主として働き始めました。


その後、藩主の近習として昇進し、儒学者の轟武兵衛や国学者の林桜園に師事し、神風連の太田黒伴雄や加屋霽堅とともに兵法を宮部鼎蔵から学び、尊皇攘夷の考えを固め排外的な攘夷の信念を持つ攘夷論者になります。


剣術は我流で、片手で刀を抜き片膝が地面につくほど低い姿勢からの逆袈裟斬りが得意だったそうです。また、伯耆流居合を修行したという説もあり、居合が伯耆流だったことと、逆袈裟斬りが多い点がその根拠となっています。このあたりも緋村剣心と似ていますね。


元治元年(1864年)6月新選組の襲撃、池田屋事件で命を落とした宮部鼎蔵の仇を討つべく京都へ向かいました。


さらに、7月11日、倒幕運動の佐久間象山を白昼堂々と暗殺。西洋の鞍を使って神聖な京を闊歩したという理由での凶行でした。


しかし彦斎はこの事件を後悔することになります。象山は開国派の学者として、万国対峙(世界中の国と向かい合い、対等の立場を取ること)の知恵を志士たちに教えていたので、路線は違えど彦斎と同じく国を憂う人物だったのです。


このことがきっかけで彦斎は暗殺行為から身を引くことになります。

戦では積極的に敵を斬る

暗殺はやめたとはいえ、戦には積極的に加わり同月の7月19日には禁門の変に長州側で参加し、第二次長州征伐のときも長州軍の一員として参戦し勝利をあげています。


慶応3年(1867年)彦斎は国許に帰藩し熊本藩に対し討幕派に付くよう説得を試みますが、藩の実権を握る佐幕派によって投獄されました。そのため、大政奉還・王政復古・鳥羽・伏見の戦いなど、国が変動する時期を獄中で過ごしていました。


そして、熊本藩の佐幕派は彦斎を利用して維新の波に乗ろうとしますが、彦斎は協力を断ります。しかし、最後まで藩を離れることはありませんでした。

明治政府の開国方針を批判

明治元年(1868年)熊本藩主、細川護久の弟である長岡護美が明治新政府の参与になり、彦斎に一緒に上京するよう命じました。


この頃より、新選組の隊士である佐久間象山の息子が、彦斎の命を狙っていることが分かり、長岡護美の助言で、高田源兵衛(こうだ げんべい)に改名し、その名前を用いりながら中山道や東北地方を遊説して尊皇を説いたとされています。


維新後、開国政策へと走る新政府は、排外主義的な鎖国攘夷を要求する彦斎のような攘夷論者を疎ましく思うようになり、かつて尊王攘夷を主張していた志士や公卿たちはこれに反発。各地で不穏な動きが相次ぎ攘夷論者である彦斎も反発します。


明治2年(1869年)彦斎は熊本藩の飛び地・豊後国の鶴崎に赴任し、藩兵隊長として勤務します。形式上は藩兵隊長ですが、実際は左遷でした。しかし、彦斎はめげることなく私塾の「有終館」を設立し、多くの兵士に兵法や学問を教える一方、交易も行っていました。


やがて彦斎の行動に危機感を抱いた藩から突然の免職通知を受け、有終館は解散させられました。


さらに、明治3(1870)年、彦斎の元に長州の大楽源太郎が逃げてきます。大楽は彦斎の門人で、大村益次郎暗殺に関わる人物でした。大楽を匿ったことで、彦斎は大村暗殺への関与が疑われ、同年7月11月藩によって捕縛されます。


また、明治4(1871)年、京都で二卿事件が起き、これは攘夷派公卿による明治政府の転覆を狙ったもので、匿った大楽もこの事件に関与していたことや、つづいて広沢真臣暗殺事件など、彦斎も複数の事件に関与した疑いをかけられ藩獄になり江戸送りになります。

危険分子となり処刑

どんな状況や時代になろうと攘夷にかける思いの強さが劣ることがなかったため、彦斎の存在は明治維新政府に問題視されるようになります。


そして、江戸の牢屋に入れらた彦斎に対し、木戸孝允(桂小五郎)は「河上彦斎は一世の豪傑ではあるが、いまだに攘夷論を頑迷に唱えつづけている。いずれ国家に害毒をなし、文明の妨げとなることだろう。願わくば君(玉乃世履)、私が帰国する前に河上を始末しておいてくれ」と言います。


しかし、かつての同志「玉乃世履」が裁判官という要職にあったにもかかわらず、断罪処分を下すことに忍びなさを感じたので、攘夷論を捨てるよう彦斎に最後の説得をこころみ、時勢の一変と現政府への協力を説きますが「尊攘の志に殉じた同志たちを裏切れない」と話し、首を横に振り拒否を示しました。


そして、明治4年12月4日(1872年1月13日)彦斎は日本橋小伝馬町で斬首され、最後まで攘夷志士のまま、享年38でこの世を去りました。


なお、大村・広沢などの暗殺事件に彦斎が関与した度合いは低く、新政府の方針に従わず、危険な攘夷論者であり、反乱分子と見なされたため処刑されたと考えられています。


また、彦斎ら勤皇派を封じ込めたい熊本藩の策略という説もあります。

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