【実力は本物】ジャニー喜多川とは何者?ジャニーズ帝国を築いた男の生涯

【実力は本物】ジャニー喜多川とは何者?ジャニーズ帝国を築いた彼の生涯
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ジャニー喜多川とは、アメリカ生まれの実業家であり、日本での本名は喜多川 擴(きたがわ ひろむ)です。


英名はジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)で、ジャニー喜多川の愛称として知られており、人気男性アイドルグループをプロデュースするプロダクション会社、ジャニーズ事務所(Johnny&Associates:ジャニーズ&アソシエイト)の創設者兼社長です。


ジャニー喜多川の影響力は音楽だけでなく演劇やテレビ界にも広がり、日本のエンターテインメント業界で最も影響力のある人物の一人とされ、40年以上にわたって日本の男性アイドルグループ創造において事実上の独占状態を保ってました。


また、「もっとも多くのコンサートをプロデュースした人物」「もっとも第1位のシングル曲をプロデュースした人物」として2010年にギネス世界記録にも認定されています。

ジャニー喜多川の生い立ち

ジャニー喜多川は1931年にロサンゼルスで3人兄弟の末っ子として生まれ、父親は仏教の僧侶であり、1924年から1933年までリトルトーキョーの高野山仏教寺院で住職を務めながら、プロ野球チーム「ゴールドスター(1947年に金星スターズに改称)のマネージャーも兼任していました。


姉は藤島メリー泰子(ふじしまメリーやすこ)ことメリー喜多川で、芸能プロモーターやジャニーズ事務所名誉会長、レコード会社である「ジャニーズ・エンタテインメント」の代表取取締役社長を務めています。

藤島メリー泰子こと、メリー喜多川

兄はNASAの関連会社に勤めていた経歴があり、アポロの設計にも携わる優秀な学者だったそうです。


ジャニー喜多川は1933年に家族と共に日本へ移住し大阪で生活を送るようになり、やがて太平洋戦争が始まると、子供たちだけ和歌山県に移住し疎開しています。


その後、第二次世界大戦が終結したあとの1947年に子供たちだけで再度ロサンゼルスへ移動し、ジャニー喜多川は現地の高校へ入学しています。ロサンゼルスの高校を卒業したあとは姉と同じロサンゼルスの大学に進学しています。


1952年にはアメリカ軍に徴兵され朝鮮戦争に従軍し、戦災孤児になった子どもたちに英語を教えるなど1年ほど兵役に就きます。その後、軍事援助顧問団の事務職員として来日し、東京の米国大使館に在住しながら少年野球チームを結成。

ジャニーズという名の少年野球チームを設立

日本に戻ったジャニー喜多川は東京の代々木公園を歩いている際、野球をしている少年たちを集め、チームマネージャーとして活動を開始し、そのグループを「ジャニーズ少年野球団」と名付けました。


そして、雨で野球の練習ができなかった日に、ジャニーズ少年野球団の4人を選び出し、ミュージカル映画に連れていき、映画に感動したことからエンターテインメント事業を始める決意をし、1962年頃に自らが結成した野球チームのメンバー4人によって、最初のアイドルグループである「ジャニーズ」が結成されました。

初代グループであるジャニーズ

ジャニーズはポピュラー音楽を歌う魅力的なパフォーマーと、調和のとれたダンスを組み合わせるという当時としては斬新な方式を採用することで、ある程度の成功を収め、これが後のジャニーズたちにつづくパターンを確立します。


そして、「ジャニーズ」という言葉は徐々にグループ名ではなく、ジャニー喜多川が雇用するパフォーマー全般を指すようになりました。

ジャニーズ事務所の設立

最初は芸能プロダクション「新芸能学院(現:名和プロダクション)」に所属していましたが、すぐに独自の事務所を立ち上げ、1962年正式にジャニーズ事務所が設立されました。


1968年には、フォーリーブスとして知られる4人組の男性アイドルグループを設立し、1970年から毎年開催される招待制の歌番組「紅白歌合戦」に7年連続で出演したことで、初期のジャニーズ事務所を代表するグループになりました。

ジャニーズJr.の誕生

ジャニーズJr.黄金時代と呼ばれたメンバーたち

ジャニー喜多川は、アーティストの開発とマーケティングにおいて、潜在的なパフォーマーを公開オーディションで募集し、選ばれた才能ある少年たちを「ジャニーズJr.(ジャニーズジュニア)」と呼ぶようになります。


選ばれた少年たちは会社の寮に住み、歌唱、ダンス、演技などのショーマンシップを磨くためのトレーニングを受けさせ、デビュー前の段階でさまざまな活動を通じてファンにアピールし、実力を磨いて将来的にトップアイドルや俳優としてデビューするための流れを構築していました。


この一連の流れは2023年でも変わらず行われており、基本的にデビューするまでは寮で生活するようです。


そして、ジャニーズ事務所から以下のアーティストたちが毎年のようにデビューし、多くのヒットを生んだことで、ジャニー喜多川は音楽業界のトップに君臨することになります。

歴代ジャニーズのデビュー表

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年代グループユニットソロ
1962年ジャニーズ
1968年フォーリーブスあおい輝彦
1969年永田英二
1970年ジュークボックス
1971年ハイソサエティー内田喜郎
1972年郷ひろみ
1973年葵テルヨシ
1975年・リトルギャング
・ジュニアスペシャル
殿ゆたか
井上純一
豊川誕
1976年森谷泰章
未都由
1977年川崎麻世
おりも政夫
1978年・VIP
・スリーヤンキース
1979年青山孝
赤木さとし
1980年ANKHたのきんトリオ近藤真彦
田原俊彦
1981年ひかる一平
1982年シブがき隊
1983年・イーグルス
・THE GOOD-BYE
乃生佳之
1984年オレンジシスターズ
1985年少年隊中村繁之
1987年光GENJI
1988年男闘呼組
1990年忍者(少年忍者)
1991年SMAP本木雅弘
1992年山本淳一
1993年SAY’S赤坂晃
1994年TOKIO成田昭次
諸星和己
錦織一清
1995年V6佐藤敦啓
1997年KinKi Kids
1998年・Coming Century
・J-FRIENDS
1999年20th Century
2000年Secret Agent香取慎吾
2001年GOタリモ&ミニカレー長瀬智也(桜庭裕一郎)
2002年タッキー&翼MATCHY with O.A.I草彅剛(チョナン・カン)
堂本剛
2003年NEWS
2004年関ジャニ∞稲垣吾郎(&G)
2005年・修二と彰
・トラジハイジ
2006年KAT-TUN・木更津キャッツアイ feat.MCU
・Kitty GYM
堂本光一
山下智久
2007年HeySayJUMP・テゴマス
・トリオ・ザ・シャキーン
・Hey! Say! 7
2009年・スノープリンス合唱団
・中山優馬w/B.I.Shadow
・The SHIGOTONIN
赤西仁(LANDS)
滝沢秀明
2010年NYC今井翼
2011年・Kis-My-Ft2
・Sexy Zone
2012年A.B.C.-ZThe MONSTERS中山優馬
2013年・堀田家BAND
・舞祭組
山田涼介
2014年ジャニーズWEST
2015年せんせーションズ渋谷すばる
2017年亀と山P
2018年King & PrinceKEN☆Tackey城島茂(島茂子)
2019年亀梨和也
2020年・SixTONES
・Snow Man
Twenty★Twenty木村拓哉
2021年なにわ男子
2022年Travis Japan三宅健


ジャニーズ帝国の完成

ジャニー喜多川は音楽だけではなく、テレビ界隈にも影響力を広げ、ジャニーズ事務所に所属するアーティストたちを定期的にテレビに出演させました。


バラエティ番組はもちろんですが、商業製品の広告塔としても頻繁に活動。また、ドラマや映画では主役やそれに近しい立場で出演させることで、ジャニーズ事務所全体の人気は飛躍的アップし、1997年には40以上のテレビ番組と40本以上のCMを獲得。


そして、絶頂期には年商1,000億の利益を生み出し、喜多川一族の年収は一人25億とも言われジャニー喜多川は日本で最も裕福な人物の一人となり、日本の音楽やテレビ業界など、さまざまな分野で権威を持ち「ジャニーズ帝国」と呼ばれるようになりました。

裏では性的ハラスメントを行い訴訟問題まで発展

ジャニーズ帝国と呼ばれる裏では、「ジャニー喜多川は少年たちに性的ハラスメントを行っている」という噂が出るようになり、この話題は1988年頃から浮き彫りになっていました。


告発した人物のなかには1968年にデビューしたフォーリーブスの元メンバーもおり、この時点でジャニー喜多川の性的ハラスメント説は濃厚だったそうです。


また、1996年には元ジャニーズJr.の平本淳也により「ジャニーズのすべて」と題した書籍から、自身や仲間たちがジャニー喜多川から受けた行為を世の中に訴える本も出版されており、「ジャニー喜多川が合宿所で強制的に性行為をさせるのを何度も目撃した」などと主張しています。

1999年に週刊文集が告発

1999年には週刊文春が数々の性的行為を詳細に報じた10部構成のシリーズを掲載しました。


告発者はジャニーズ事務所に採用された10代の少年たちで、内容は性的ハラスメントだけでなく、「ジャニーズ事務所は未成年者でもアルコールや喫煙が許されてた」「ジャニーズ専用の風俗がある」などの告発もありました。


そして、未成年者に対する性的ハラスメントなどの問題は訴訟まで発展し、2000年には問題について公聴会が開かれ、警視庁や法務省、厚生省などがジャニーズ事務所を調査することになります。


しかし、性的ハラスメントに対しては否定され、アルコールや喫煙に関しては事実として認め、未成年者に対し使用させないよう警告が出されました。

性的ハラスメントは否定

ジャニー喜多川によると「何の不正行為も行っていない」と否定。彼の弁護士は「不満を述べる元従業員からの主張だ」と説明しました。


そして、ジャニー喜多川は一連の内容を表に出した週刊文春に対し、名誉棄損で訴訟を起こすことになり、長期にわたる訴訟の末、2002年に東京地方裁判所は、週刊文春に対しジャニー喜多川に880万円の賠償金を支払うよう命じ、名誉毀損であると判断しました。


週刊文春はこの判決に対し控訴しましたが、東京高等裁判所は一部は事実であるものの、実際に名誉を傷つけたと判決しました。


ただし、名誉毀損的な内容は、ジャニー喜多川が未成年者にアルコールやタバコを提供したとする主張に限定され、性的告発に関しては信頼性があることから、報道する十分な理由があったと判決しました。ジャニー喜多川はこの判決に対し最高裁判所に控訴しましたが、最高裁判所は棄却しました。


なお、当時からこれだけ大きな話題だったにもかかわらず、週刊文春以外の主要な日本メディアは、ジャニー喜多川に対する告発の話題や公聴会、および訴訟について一切報道がなかったことも話題になりました。


やはり、「ジャニーズ帝国」と言われるぐらいさまざまな分野で権威を持っていたジャニー喜多川の影響力があったため、報道が出なかった「というよりも出せなかった」と言われています。


ジャニー喜多川が行った性加害の内容はこちら»ジャニー喜多川による性被害の内容を分かりやすく解説をチェックしてみてください。


性加害を網羅的に知りたい方はこちら»【要約】ジャニーズ事務所が公開した調査報告書を分かりやすく解説

2019年死去:享年87歳

ジャニーズ帝国を牽引し、多くのアイドルを輩出したジャニー喜多川ですが、2019年7月1日頃、くも膜下出血で倒れ入院していることが分かり、ジャニーズ事務所は「今もジャニーは必死に頑張っておりますので、治療に専念することを最優先とさせていただきたく、ご理解ください」と発表。


事務所によると体調の異変を訴え救急搬送され、そのまま入院。所属タレントらが面会に次々と訪れていたそうですが、2019年7月9日に帰らぬ人となりました。


ジャニー喜多川の訃報は日本国内外で報じられ、通夜・告別式はジャニーの子供であるタレントたちとJr.のみで家族葬を執り行い、「ジャニーズは自身の子供のような存在でございます。タレント達と最後のお別れをいたしました」と公式サイトで報告。


その後2019年9月4日にお別れ会が東京ドームで行われ、希望する人は誰でも参列でき、関係者と合わせて9万人以上が訪れ、芸能史上最大のお別れ会になりました。


歴代ジャニーズはもちろん、当時の首相安倍晋三さんからの弔電もあり、ジャニーズを代表して近藤真彦さんが読み上げ、昭和や平成、令和の時代にわたって日本の芸能界へ多大な功績を残した希代のプロデューサー、ジャニー喜多川の華やかなラストショウになりました。

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