【絵画あり】殺人ピエロと呼ばれたジョン・ウェイン・ゲイシーを解説

【絵画あり】殺人ピエロと呼ばれたジョン・ウェイン・ゲイシーを解説
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ジョン・ウェイン・ゲイシーとは、アメリカ合衆国のシリアルキラーで、キラー・クラウン(殺人ピエロ)として知られ、子供たちを楽しませるためにパーティやイベントで自身が扮していた「ポゴ」という名のピエロ姿になることが多かったため、この異名がつけられました。


ゲイシーはボーイスカウトで活動した経験があり、社会的にも資産家でチャリティー活動に熱心な一方、秘密裏に恐ろしい犯罪を犯していました。


彼はアルバイトの名目で少年たちを呼び寄せ、性的暴行を加えてから殺害し、遺体を自宅地下や近くの川に遺棄していました。


1972年から1978年にかけて、少年を含む33人を殺害したことが明らかになっており、1994年5月10日薬物注射による死刑が執行。殺害の動機は同性愛を隠すために行われたと考えられています。


また、ピエロの絵を描いたことで知られ、これらの絵画は連続殺人犯に興味を持つ人々の間で人気があったそうで、展示会や高額な取引が行われたこともあり、俳優のジョニー・デップも彼の絵を購入し所有していることで知られています。

事件の概要

顔を隠して警察署に連行されるゲイシー

1968年26歳のゲイシーは10代の少年への性的暴行と、別の少年への暴行未遂で告発されましたが、彼はこれらの告発を激しく否定し、地域住民のなかには被害者よりも彼を信じる者もいたそうです。


また、被害者の証言をやめさせようとして、従業員の一人に被害者を襲うよう指示したそうですが、失敗したことにより、10年の実刑判決を受けます。


しかし、模範囚だったので、刑期を1年半務めるだけで仮釈放されます。翌年には別の10代の少年を車に誘い込み、セックスを強要したことで再び逮捕されるのですが、加害者の少年が裁判に出廷しなかったため、告訴は取り下げられました。


その後、ゲイシーは母親からの資金援助で、イリノイ州ノーウッド・パークのウエスト・サマーデール通りに家を購入し、そこで以降の殺人を犯すことになります。


29歳になるころゲイシーは建設業を始めるのですが、会社で働く従業員のほとんどは高校生や若者で、時に暴力で脅しながらセックスを申し込んでいたそうです。


反面では地域社会の人間として表舞台に立ちつづけ、パーティーを主催し多くの参加者を集め、休みの日はポゴという名前の道化師の衣装を着て、福祉施設を訪れて子供たちと楽しい時間を過ごしました。


その結果、子供たちの間で人気者となり、さらには地元の民主党のメンバーとしても活動し、党のパーティー会場で当時の大統領であるジミー・カーターの妻、ロザリンと握手する機会もありました。

当時の大統領であるジミー・カーターの妻、ロザリンと握手するゲイシー


ゲイシー初の殺人

次第にゲイシーはパーティーで知り合った少年をあさるようになり、16歳のティモシー・マッコイを性行為のために自宅に誘い込み、青年とベッドをともにしました。


早朝に目を覚ますと、その青年がナイフを持って立っているのを見て恐怖からパニックを起こし、刺し殺してしまい死体を床下に隠しました。そして、これ以降から殺人が習慣になっていきます。


なお、このとき殺すことで性的満足を得たことを発見し「死が究極のスリルだと悟ったのはその時だった」と語っています。


ゲイシーのもう一人の犠牲者は、18歳の従業員ジョン・ブトコビッチで、給料の滞納について話し合う約束をして彼の家に誘い込みました。ゲイシーは彼に酒を飲ませ、騙して手錠をかけさせ、首を絞めたそうです。


なお、手錠を使うのはゲイシーの常套手段であり、彼は被害者に「手品を見せてあげる」と言いながら手錠をしていました。その後、凶器で脅しながら強姦し、殺害方法は首に掛けたロザリオにボールペンを入れゆっくりねじり絞殺していました。


殺害後は死体を床下に埋葬し、その上に石炭を撒いてしました。他にも塩素をかけることもあったそうです。


ゲイシーはこの時期を「クルージング時代」と呼び、ほとんどの殺人を犯しており、犠牲者は敷地内に埋葬され、何人かは自宅の地下にある共同墓地に埋めていました。


しかし、生かしておいた一人が警察に通報したことで事件が明るみに出ます。シカゴのバス停から拉致した19歳の大学生、ロバート・ドネリーを自宅に連れ込んだゲイシーは、ドネリーをレイプしつつ拷問し、気絶するまで何度も頭をバスタブに沈めたり、銃を使って偽の処刑を行っていました。


ドネリーはあまりの痛みに殺してくれと懇願したそうですが、ゲイシーは彼を解放し、誰にも言うなと警告しました。


解放されたドネリーはすぐさま警察に通報し、警察がゲイシーの家に訪問するのですが「合意のうえでの性奴隷」であったと言い、警官もゲイシーを信じたそうです。


なお、警察に通報され調査されている間も別の被害者を殺害しています。

家宅捜査が開始されついに事件が明るみに

ゲイシーの被害者となった青年たち
並べて見ると美青年を狙っていたように思える

1978年までにゲイシーの家は遺体を置くスペースがなくなっていたので、高速道路の橋から川に遺体を投げ捨て犠牲者を処分し始めます。


そして、1978年12月11日、15歳のロバート・ピーストが、仕事の面接をするためにゲイシーに会いに行くと母親に告げたあと、行方不明になったことで家族が行方不明者届を提出し、この事件がキッカケでゲイシーの犯行が明らかになっていきます。


母親の通報により、ゲイシーの家が捜索され「肛門用バイブレーター・警察バッジ・ピストル・皮下注射針・ポルノフィルム・被害者の所持品」など、いくつかの不審物が発見されました。


このことから警察から厳しい追求を受けることになり24時間監視されるようになったのですが、殺人者の反面では有力な民主党員であったため、逆に警察に対し人権被害として民事訴訟を起こすなど、警察の捜査をかわしていました。

奇行が目立つようになる

犯行が行われたゲイシーの家
犯行が行われたゲイシーの家

警察に監視されるようになったころから一方通行の道を逆走するなど、異様な行動が目立っていたそうで、ゲイシーを監視するチームの責任者は「他の罪で逮捕しよう」と決断したそうです。


やがてガソリンスタンドでゲイシーが顔馴染みの従業員にマリファナを渡していたところを麻薬不法所持の現行犯で逮捕。これにより家宅捜索令状を手に入れ、ゲイシーの自宅に家宅捜索が入ります。


警察の長期にわたる監視と捜査の結果、面接に行くと言って行方不明になっていたロバート・ピーストの所持していたレシートを発見。


他にも、29人分の遺体が石灰で覆われた家の床下から発見され、死体はきちんと整頓された状態で埋められており、さらには4人の遺体は床下にスペースがなかったため、近くの川に捨てられていたことが分かり、この川からはロバート・ピーストの遺体も見つかりました。

ゲイシーが遺体を隠していた床下

被害者のなかには男性売春宿で働いていた人や、ゲイシーの会社でアルバイトをしていた10代の若者たちも含まれ、年齢は14歳から始まり、最も年長の犠牲者は22歳の青年で、身元が特定できない遺体も9体あったそうです。


床の下に埋められていた遺体は完全に腐敗しており、発生していたメタンガスによって警察官たちは激しいめまいや吐き気を感じました。その腐臭は非常に強烈で、臭いに触れた衣服は洗っても取れず、衛生的にも危険だと判断されて焼却処分されました。


さらに、地中に埋まっていた遺体が空気に触れることで再び腐り始め、衛生局の分析によると、命に関わる危険な物質が大量に検出され、毒性の強い細菌も見つかったそうです。


そのため、捜査員たちは作業用の使い捨てジャンプスーツを着用。傷を自己申告するようにし、傷のある捜査官は現場から外されました。また、全員に髭を剃ることも禁止され、警察署の遺体保管所はまるでガス室と化してしまいました。

実際の警察署の遺体保管所の様子


裁判では多重人格を主張

ゲイシーの裁判は1980年2月6日に始まり、33人を殺害したことを自白しているにもかかわらず、心神喪失と宣告されたことで犯罪精神科病棟に移されました。


そして彼は「私の中には4人のジャックが存在します。彼らに関する詳細は知りません。私の家で起きたことは、すべて4人目のジャックであるジャック・ハンリーが行ったことです。」と述べました。


ゲイシーによれば、4人のジャックには人格があり、その影響下では記憶が欠けているとのこと。1人目のジャックは少年を見つけて性的な行為を行うために外出するそうです。その際、2人目のジャックが現れ、行為が終わると裸のまま少年を車外に投げ捨て、その後逃走して楽しむとのことです。


3人目のジャックは、2人目のジャックが連れてきた少年を無事に自宅まで送り届ける心優しい警察官の役割を果たしていたようです。そして、3番目のジャックが少年を励まし話している最中に、突然4人目のジャックが現れて、少年を手の届かない場所へ連れ去ってしまうと言い、33件の殺人容疑は心神喪失を理由に無罪を主張していました。


しかし、検察側はゲイシーは正気であり、自分の行動をコントロールしていたと主張し、ゲイシーが殺人の準備と隠蔽のためにとった入念な手順を指摘。


陪審員も訴えを退け有罪評決を下し、1980年3月12日ゲイシーは33人の殺人を犯した罪で有罪となり、彼はアメリカ史上最も冷酷な連続殺人犯の一人として知られるようになりました。


その後ゲイシーは12回の死刑判決と21回の終身刑判決を受けましたが、数百万ドルにも及ぶ膨大な資産を利用し、20回以上もの上訴と模範的な服役生活によって刑を免れつづけました。


ゲイシーは自身を妬む人々や警察の陰謀の被害者であると主張し、冤罪を訴え死刑制度の違憲性を訴えるために何度も上告しました。これにより、アメリカ国内で彼に対する非難が高まり、死刑執行を求めるデモ活動が行われる事態も起きました。

刑務所のなかでも殺人を計画していた

そんななか、事件に興味を持ち手紙を送ってきた、18歳の少年と文通を始めることになったゲイシーは、のちに彼の電話番号を突き止め、電話でのやりとりを行うようになります。


その後、少年に「人殺しをした本当の理由を教えてあげる」と刑務所に招待し面会することになるのですが、情欲を抑えきれなくなったゲイシーは、彼を34人目の被害者にしようと企みます。


模範囚としての信用を利用して、壁もなく看守抜きの面会を取りつけ、少年と2人きりの面会が叶い、彼を監視カメラの死角に誘い出して犯行に及ぼうとしました。しかし、間一髪で看守が通りかかったことで未遂に終わります。


この犯行が決定的となり、再審請求は取り下げられ1994年5月10日、薬物注射による死刑が執行されました。


なお、薬物注射による死刑は7分前後で死亡するのですが、何らかの手違いか薬効にムラが生じたゲイシーは20分近く苦しんで絶命したそうです。


この件についてコメントを求められた担当検事は「被害者が受けた苦痛に比べれば、ゲイシーの苦痛など大したことはないね」と述べました。


ちなみにゲイシー最後の言葉は「俺のケツにキスしてくれ」だったと言われています。

ゲイシーが残した絵画

売却された絵画の一部

大学在学中、ゲイシーは絵画を学び当時からピエロの絵を描いており「自分の絵画は人々の生活に喜びをもたらすためのもので、お金を稼ぐためのものではない」と主張していました。


死刑が執行されたあと、残された彼の絵画の多くはオークションにかけられ、販売委託を任されたディーラーによると19枚の絵を売却したそうで、購入者のなかにはジョニー・デップもいたそうです。


以下はゲイシーが残した絵画になります。

スクロールできます

ピエロ以外にも、ディズニーなどのキャラクターも描いていたのですが「ゲイシーが描いた」というだけでかわいいキャラクターも不気味に見えてきます。

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